皆さんの中で特に若い方、あるいは若い時になんで算数(数学が)出来ないのか、悩んだことがある方はいませんか。
この「数学ができない」というのは自分の中でかなりの間コンプレックスとなっていた問題で、そのためこれに関するなんで?については悩んだ期間だけ考えてきました。結局のところそれは大部分「適正」の問題なのですが、それではなんで数学が苦手だという、ほとんど先天的な能力の偏りが生まれたのか。
私は高校時代全く勉強せずにタバコを吸ったり麻雀をやったりしていたのですが、大学を受験するか否かという段になり(そんなことは全く考えていなかった。)、結局やりたいこともわからず、ひとまず大学に行くしかなさそうだとなった時、死ぬ気で勉強したことがあります。
決めたからにはやるのだというわけです。
結局私は偏差値40くらいから始めて一浪して早稲田大学に通うことになるのですが、この受験勉強の時に、やれば出来るに違いないと考えて数学をやったところ、ついぞ数学だけは諦めざるを得なかった。他の教科は勉強したらのびるにのびまくったのになんで数学だけは全然ダメなのか(ちなみに数学の偏差値は28だったと記憶している。本当に何も勉強していなかったのだ。それでも50までは行ったのだが。)
大学名などわざわざ明かさなくてもいいようなものですが、これはそのうちどうせ記事にするだろうということで始めから書いてしまうことにしたのです。
それで、
とことんまでやる性格の私はこの敗北感がどうしても許せず、色々調べたわけです。
(高校時代勉強しなかったくせにね。)
結局のところ、それだけが原因だったかどうかわかりませんが、私の関心は「脳」に向くことになった。
脳に関することはまだまだ全然わからないことばかりだし、一記事でまとめることは出来ませんが、なんで数学ができないのか(私自身のこと)を脳に則して分析してみたいと思います。
文系脳と理系脳
この記事によれば、
「文系脳」と呼ばれる人は「開拓者的」、「理系脳」と呼ばれる人は「貢献者的」である。
のだそうだ。
ざっと要約すると「開拓者」は創造的でイマジネーションに長けていて、「貢献者」は何かをもとに論理的に組み立て、発展させていくのが得意だという。
また、同記事で紹介されている判別法では、手を組んで
右手の親指が上にくれば文系脳、左手の親指が上に来れば理系脳である場合が多い
とのことだが、これはよく聞く有名なテストと同じだ。
このテストは有名で、さらに腕を組むことによっても右脳左脳の優位性を判定することが出来る。
さらに、右脳と左脳でどちらかが優位だとどういう特徴が出るのかというと、
右脳はイメージや芸術、直観の処理を司り、こちらが優位な場合は数学や理科などの理系教科が得意、左脳は言語、意味などの処理理系に関わっているためこちらが発達している場合は語学や歴史が得意とされている
という。(同記事より引用)
「なんで数学が苦手なのか」考える場合、この右脳の得意分野、左脳の得意分野と言われているこの情報はかなり重要な意味を持つ。なぜなら、自分が左脳優位であることがわかれば、数学ができない理由が半ば判明してしまうからである。

なんだ自分は左脳優位だったのか、そんならしかたない。
・・・

ちょっと待った!でも私は左脳優位の人間が理系だったのをたくさん見たことがあるぞ。
ここで何か結論を出す前に、まずは右脳と左脳について考えて見よう。
右脳と左脳
脳と視覚・視野
我々は見たものを脳でどうやって知覚しているのだろうか。
これに関しては私たちは右目で見たものは左脳で、左目で見たものを右脳で処理しているようだ。
それでは右脳派は左目が優位になっていて、左脳派は右目が優位になっているのだろうか。
利き目
利き目というのをご存知だろうか。
これに関しては手で輪っかを作り、一点を見て片目をつぶり、見え方が変わらなかったほうが利き目である。ちなみに私は右が利き目だった。
昔気づいたのだが、私は右目だけやたら視力が良くて左目はそれより少し悪いだけなのに左だけで見るとあまり良く見えないということだ。なんだか左目だけで見るとぼんやりしている。

私はなぜか視力がないわけではないんだが左目は見えているのにぼんやりしているんだな。まるで脳が見えているのに見ていないみたいな感じなんだ。使ってないので退化したような感じだな。
利き目が右なら左脳優位なのかというとそうでもないらしい。その証拠に利き手は右だけど、利き目は左という人がいるのだ。というとは利き目と右脳優位、左脳優位のあいだに明確な関係性はない。
と思ったのだが、腕が右利きで目が右利きだと左脳優位だと書いているものがあった。
利き脳
それでは利き脳を調べてみよう。
利き脳は有名な手と腕を組む方法で調べることが出来る。
まずは手を組んでみる。指をしっかり組み合わせる感じだ。
その次に腕を自然に組んでみる。
それぞれ下になった方でどちらの脳が優位か見る。
手(指)と腕の組み方で
1、右手が下、右腕が下の場合 右右脳
2、右手が下、左腕が下の場合 右左脳
3、左手が下、左腕が下の場合 左左脳
4、左手が下、右腕が下の場合 左右脳
となる。
ところでこれによれば、私は右右脳なのだ。
みぎみぎの実の右脳人間というわけである。あるいはミギーだ。

つまり天才だな
さて、これをお読みの方で右利きの方は3か4なのだろうか。
私は利き手が右で利き目が右なので左脳優位でもよいはずなのだ。
しかし、右右脳である。しかも自分で感覚的な右脳人間だという自覚もある。
言語野
実は私はこれを書いている時、というかしゃべったり文章を書いたりする時、大体の場合あまり考えずに出てくるままに書いている。同時に、あるいは少し遅れて、分析的思考で修正したりする。特にしゃべる時私は言葉に出す前にぱっと浮かんだ言葉を二度ほど添削し、修正してからしゃべるくせがある。このことから、自分は感覚的にしゃべる部分と論理的に修正する部分が同時に動いていると気づいていた。
ところが、言語野について調べてみると右利きの人はほとんど左に言語野があるという。しかし私にはそれは納得できない。少なくとも自分の場合は、右脳に言語野があるか、あるいは両方にあるはずだと思うのである。
私は会話をする時ボンボン言葉が出てくるが、こういう人間は一人だけ会ったことがある。それはみなさんもよくご存知の某会社の所長だった人だけど、まあそれはいい。
(某ブラック企業ですけどね・・・。)
ともあれ、これは例外的なことなのかもしれない。
脳梁
右脳と左脳は脳梁という神経の繊維でつながれているらしい。ということは私は右脳で考えてた(というより反射神経に近い)言葉を、左脳で分析し、脳梁で相互にやり取りしながら発していると考えると都合が良い。それでも私が言語を発する場合明らかに優位なのは右脳のようだ。だいたい何も考えていないからだ。分析し始めるのは頭のなかで言葉が発せられた後である。
分離脳
それでは脳梁が切れてしまった場合はどうなるのだろうか。Wikipediaにまとまっていたので引用してみる。
分離脳(ぶんりのう、英: Split-brain)は、脳にある2つの大脳半球を接続している脳梁が、ある程度切断された状態を示す一般用語である。この状態を生み出す外科手術のことを脳梁離断術(英語版) と呼ぶ。この手術が行われることはまれではあるが、大抵の場合は難治性のてんかんの治療として、てんかん発作の猛威を減らすことにより、物理的な損傷を防ぐために行われる。
分離脳となった患者は、その患者の左視野 (つまり両目の視野の左半分) に画像を呈示された際、それが何の画像なのかを答えることが出来ない。この理由は、多くの人々において言語優位性半球は左半球なのだが、左視野にある画像は脳の右半球にのみ伝えられるためと考えられる。2つの大脳半球の連絡が切断されているため、患者は右半球が見ているものを答えることが出来なかったのだ。しかし、患者は左視野にある物体を左手で掴んだり、認知したりすることが出来る。これは左手が右大脳半球によりコントロールされているためである。(出典:Wikipedia)
つまり、左脳に言語野がある場合、脳梁が切断された状態だと見たものが何なのか言葉で説明することが出来ない。ところが、手でつかむことは出来る。というのも右脳では認識していてて、右脳が支配するのは左手なので動かすことが出来るからというわけだ。
このことで右脳と左脳でそれぞれ機能が集中する傾向があると読み取ることは出来る。
一番初めのテストでは私は理系脳でも良いはずだが、実際には文系で右脳優位である。私がこれを知った時に教えてくれた人は理系で左脳優位だった。実際理系が右脳優位かというとそうでもないような気がする。
脳梁や分離脳について考えたのは右脳に言語野がある場合について考えるためだ。つまり通常は分かれている機能が片方に集中していた場合どうなるかだ。思考が早くなる可能性はあろうだろう。その結果数学的能力が欠落したとしても悪くはないと考える。
内省的か外向きか
高校時代のある時、何故だったから忘れたが、「俺はいつでも考え事をしている。そうじゃない時はない。」と友だちに行ったことがある。そうしたら「嘘つけ。そんなやつはいない。」と言われたのだ。その時私はポカーンとしてしまった。程度の差こそあれだいたい皆自分と同じだと思っていたのだ。そこで、自分はまわりよりも内省的なのだと気づいたのだった。
内省的の対義語はないらしい。反内省的という言葉を目にしたが、それは違う気がする。
要は関心が外向きかということだ、目で見た外の世界について不思議に思い色々試したりするタイプなのか、自分の内面について考えたりするタイプなのか。
このことを考える意味は、一旦右脳優位・左脳優位という見方からはなれて、言語優位なのか視覚優位なのか、あるいは聴覚、触覚などどれが優位なのか考えてみることにある。
ここで言語に関係があるのは聴覚で、関係がないのは視覚と触覚だと思われるが、とりあえずここでは言語に関係が深いのは聴覚で、視覚は関係が薄いと考える。
なぜなら聴覚は常に言葉を聞く状態にあるが、視覚は本を読んだり何かで字を見る時以外は大体言語と関係がないものを見ているからだ。全く関係がないわけではないが、明らかに聴覚のほうが言語に関係がある。

内省的で言語感覚がするどければ聴覚優位である場合が多いと私は考える。
利き脳は、仕事を選ぶか
実はこれが言いたかったことの一つなのだけれど、私は内省的な人間でおもに右脳優位の言語野で思考をしている。(と勝手に決めている。)
この場合、右脳は思考に手一杯で他の仕事を放棄するのではないかと思ったのだ。
私の左目はあまり見ていないと先程書いたがこれは右脳が放棄したせいだと考える。
右脳は考えることに手一杯で見ている暇はないのだ。だから視力は悪くないのにぼんやりして見えるのだろう。いつも見ていないから慣れていないのだ。左目の視力があまりよくないのもこれで説明がつくと思う。右脳が言語を処理しているために視覚情報を処理しきれないためだ。
私は利き目の右目を使い左脳で主に視覚情報を処理しているのだと考えられる。一方聴覚はといえば私はいわゆる地獄耳なのだった。言葉にはすぐに反応してしまうのだろう。つまり私の場合右脳では常に聴覚情報を処理していると考えている。
脳における意味
初めの方の引用で左脳が意味に関わっていると書いてあった。ここで思い出したのが、私が一体何才なのかわからないほど小さい頃のことである。
私の親は私に右と左を教えようとしたのだが、見事に失敗したのである。
その時私は怪訝な表情をしていたに違いない。私ははっきりと覚えているが、右と左ってそれを区別するのに何の意味があるのかと思ったのだ。それがわからない限り覚えない構えだった。でも、結局はむずかしくないのでそのうち覚えた。(でも普通よりはかなりかかったはずだ。)
またある時に時計回りを教えようとしたのだが、これについても両親は失敗した。
私は時計が右回りでなければならない理由はないと思ったのだ。しかしまあ、考えてみれば反対回りでなければいけない必然性もなかったので、しばらくするとこれも一応覚えた。
しかし考えてみればこのことこそが、決定的だったのである。
付け加えておけば内省的、または言語優位などとも関連することだが、意味にこだわったり本質についてしつこく追求する傾向があるように思う。まだにこのブログで触れるべき(2019年現在あまり触れていないが笑)テーマだ。

意味についてはまた書く機会があるだろう。それまではアディオスだ。
なんで数学ができないのか(理由)
私は物事を理解する時、まず右脳で理解しようとする。これだけなら何も問題ないに違いない。
しかし、言語野が右脳にあったために、何の意味があるのかも右脳で考えているのだ。それですぐに意味がわからないことに関してはその場で飲み込むことを拒否し、自分なりに意味がわかるまで考えることになる。
そんな人間に、例えばサインコサインタンジェントとか言ったところですぐに飲み込めるはずがないのである。つまり、私はそれについて自分で考え始めるのだ。授業で言えば、考えたところでわからないのだが、とにかく考えが終わる前にその公式に関する授業が終わるのである。(おっと授業などほとんど寝ていたのだった。しかしここでは小さい文字でやり過ごすことにする。)
数学というのは、自分でわからなかったものでも、先人が正しいと証明したものは前提として受けいれて積み上げていく学問である。しかし私にはそれが出来ない。そうすると、私はあらゆる数学の公式に対して自分で一から考えなくてはならない。
そして、私はとうとうその生来の傾向、気質を曲げることがなかった。
これが数学ができない理由である。
そんなことしていたら、何年あってもたりないのだ。
ところで、私は高校時代ほとんど数学は0点だったのだ。それでも進級させてくれた高校に感謝しなければならない。(出来ない上に勉強しないので当然なのだが。)
数学は結果だけを暗記する学問、ひらめきや過程を追体験出来ない
数学は本来「このような物事は数式で表せないものだろうか」などと考え、それについて探求し、ついに数式化に成功するという「過程」があるはずだ。そこにこそ、「数学の面白さ」がある。
しかし学校で習う数学では結果としての公式が与えられるだけで、ただの暗記科目になってしまっている。正しいかどうか納得も出来ない公式を暗記させられて、それを応用して別の数式を解くという単なる作業になってしまっている。

子供がつまらないと思って当然だ
まとめ
これが長年考えた私のいいわけである。
しかしながら、数学ができるということと数字に強いということは全く別のことだということをわかってほしい。私は理系の人間に何度も複利の意味を教えてきたのだ。

つまり私は数字の意味も考えているわけだな。
ほんとうの意味で数字の本質を理解できていれば数学は必ずしもできなくても良いに違いない。
これは私の例だが、そもそも脳のことなんて自分でしかわからないものだろう。だからこのことを考えてみるには、徹底的に自分の脳について考えてみるしかなかったのだ。
これを読んだ数学嫌い諸氏が、なんで出来ないかを考えるヒントになれば嬉しい。こんな考えがあるとわかった上で、みなさんがこの事について自分なりに考えてみるのは何もないより少し楽だし、けっこう楽しいだろう。
数学を出来ないのにやるのが得策かどうか、遺伝子で調べてみるのも手だと思う。明らかに苦手で遺伝子的にも不向きと出たならば受験の場合はきっぱりと捨ててしまって選択と集中をすべきだろう。
遺伝子で学習能力を分析できるサービスで子供の才能を遺伝子の見地から調べることも出来る。調べてみたら苦手と思っていても実は素質があるという可能性もあるかもしれない。
みなさんが無用なコンプレックスに悩むことのないように。
ちなみに私は以前数学コンプレックスがあって数学を何とかできるよう勉強したことがあるが無駄なのでおすすめしない。東大生のように何もかも満点をとることが人間としても出来の良さではないので、別の得意科目を伸ばすほうがいいだろう。
例えば英語を伸ばしたい人は英語をやるほうが断然おすすめだ。
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